街にドラマは溢れている。 ドキュメント72時間 鴨川デルタを見て
人生は、出会いであると思う。
この言葉は特に人に対して強調されるが、
この番組を見ていると、場所もしかりだと感じる。
不特定多数の人が集まる場所には、それこそ様々な人が集まる。
男、女、大人、子供。
ちょっと掘り下げると、太っている人、痩せている人、サラリーマン、学生。
もうちょっと掘り下げると、目が死んでいる人、楽しそうな人。
当たり前だけど、僕らはそれぞれの人達と会話という手段を使わないかぎり、そうした人々がどんな人なのか知る手段を得ない。
何かしらの接点、事件、興味が無い限りは彼らとこうした場で話すことはないので、
彼らを記号としての「大多数」と捉えるのが常である。
もちろん彼らと話す目的でそこに集うわけではないので、それが当たり前ではあるのだが。
ドキュメント72時間は、インタビューという手段によって、この視覚化された記号を、唯一無二の「人間」として感情を可視化した上で蘇らせた番組だと感じた。
その日、72時間の間で鴨川に集まったのは、
近隣の大学生、川を見つめる老人、ベンチでタバコを吸う人、川辺で撮影を行う人である。
近隣の学生は川辺で楽しそうに酒を飲んでいる。
これはとてもわかりやすい記号として成り立ちやすい光景である。
学生→川辺という宴会場→楽しそうな飲み会。
この文章だけでも脳内で簡単に想像がつくだろう。
しかしどうだろうか。
この番組の中で紹介されていたのは、一方、その飲み会を川の対岸から眺める三人の女子学生であった。
カメラは彼女たちを捉えて話を聞く。
「あの中にいる人の一人は帰りたがっていると思う。」
「みんな高校まで女子校だったから、男の子とどう話していいかわからない。」
「優しくされるとすぐ好きになりそう(笑)」
「あそこの集団に入れれば、自分も彼氏できるな」
ナレーションが入る。
~思い描いていた未来はまだちょっと遠いみたい。~
これが、ドラマを有している人とその情景である。
鴨川、学生、飲み会という同じシチュエーションながら、彼女たちのこれらの言葉や感情は、
この3つの同じキーワードでも想像するのは容易ではない。というか、不可能である。
ここにこの番組の価値がある。
ありふれた誰でも容易に想像がつく、もしくは行き慣れている場所で、ドラマを発見する。
よほど感受性の高い人間ではない限り、こうしたドラマを見つけるのは大変むずかしい。
しかし街は、ドラマの連続で呼吸をしている。
ティーンエイジャーだった尾崎豊は自身の曲の中でこう歌っている。
「電車の中 押し合う人の背中に いくつものドラマを感じて」
天才は天才と言われる所以を感じた。
満員電車に乗っていても、僕らが感じるのはドラマではなく、もっと物理的な狭さでしかない。
そんなの当たり前じゃん、それだけ人が生きてればそれだけの人生あるんじゃね?
という筋はごもっともであるのだが、ふとそれを感じ取れるのかがこの話の肝である。
僕らは、なにかしらのキッカケがない限り、遠い他人には興味を持たない。
たとえばそれがよほど特徴的なファッションであったり、
場にそぐわない行動、格好だったら別である。
街のホームレスや女装してるおっさん、奇抜なファッションで街を我が物顔で練り歩く若者もその類だ。
しかし、一見普通に見える人にどんなことがあったのかを想像する発想、そしてその想像力は殆どの人が持ち合わせていないと考えていいと思う。
よく、「趣味人間観察」という若い女の子がいるが、ぼくは何様だと思うと同時に、だったらその能力で今日観察した人間の面白い話をしろと思う。
これを人間観察と称して創造の範疇で行っても、たいてい深みのない表面をなでた記号で終わるか、
想像力の欠如によるどん詰まりか、飛躍したファンタジーワールドに流れ込む。
いずれにせよ、その子の話がつまらないのは、リアルじゃないからなのである。
しかしドキュメント72時間は、紛れも無いリアルである。
ドラマと言っても、起承転結があるストーリーではない。
その日その時その場所に集まった偶発性を持った何気ない人間たちの現状と少しの過去を会話から少し垣間見るだけなのである。しかしそこには紛れも無いリアルなドラマを感じる。
毎日鴨川デルタにいる時間を計っている大学二年生
鴨川で説教をしあうらしい、元お店のママと定年になるまで働いていたサラリーマン
神戸震災で家族を失くした壮年のおっさん
そして僕が今回一番こころを打たれたのが、
デイケアで出会った、PVの撮影をしている夫婦
カメラを向けられたのに、妻は全く動じず、笑わない。カメラに視線もしっかりと送らない。
撮影クルーはデイケアで出会った二人の馴れ初めを聞いた後で、質問する。
「あー、じゃあお仕事で?」
夫は少し間を取って、半ば言いづらそうに語る。
「ふたりとも患者なんですよ。心の風邪を引いてしまって。」
ナレーションが入る。
旦那さんは制作会社で働いていて、奥さんに出会って再びカメラを手に取りたいと思ったと。
クルーはまた聞く。
「いいものができそうですか?」
旦那さんは答える。
「僕の中での最高傑作」
このドラマを、日常風景のこの二人から、どう想像すればいいのか僕はわからない。
リアルすぎるし、会話からでないと二人の関係も、撮影という目立つ行動の意義も、わからない。
不理解や情報不足であれば二人のこの撮影風景は気持ち悪いと捉える人もいるのかもしれない。
しかしこれは紛れもないドラマである。
二人の過去に何があったのかはそれこそ想像の範疇でしかないし、
いまこの光景が理解されないことが大多数の感想ではあるのだろうけど、
一つ言えるのは、この番組が二人の今にスポットを当て、声なき感情を届けたということである。
社会問題を捉えたドキュメンタリーの存在価値は絶対的に必要となるが、
その根幹にいるのは問題に悩み苦しみ、行動をしている人。
ドキュメント72時間には社会問題の影はほとんど現れない。
しかしそこで遠慮しながら声を発する人間の感情は、紛れも無く問題ある社会で生きる「人間」なのだ。