ゲタバコ.

下駄箱とは、靴などの履物を収納するための家具。 銭湯など大衆が集う場所では「下足番」と呼ばれる履物の管理人を置くことがある。 ゲタバコとは、映画などのコンテンツを紹介するためのサイト。 インターネット上など大衆が集う場所で「下足番」と呼ばれるブログの管理人が置かれている。

BLEACH連載終了決定。最終的に友情勝利を目指すのか?

 

 

BLEACHの連載終了が今週のジャンプで発表されました。

 

僕の予想は、最終的にユーハバッハを倒さないで終わる。

 

これだと思います。多分。

本誌での終わり方は。

 

そして他の集英社誌に移るんじゃないかな。

 

その根拠は、BLEACHがジャンプの目指すマンガ像とかけ離れたから。

 

他にもジャンプ本誌から他誌に写ったマンガがありました。

 

例えば、これ。

 

 

途中のどこかで連載休止になってから、スクエアに移ったんだっけ?

当時まだあった月間だった気もする。忘れましたが。

 

あと、これも一度区切ってから連載再開という形で。

 

新テニスの王子様 16 (ジャンプコミックス)

新テニスの王子様 16 (ジャンプコミックス)

 

 

それからこれも。

 

To LOVEる‐とらぶる‐ダークネス画集 Venus―愛蔵版コミックス

To LOVEる‐とらぶる‐ダークネス画集 Venus―愛蔵版コミックス

 

 

つまりこれらの作品の共通点て、

 

ジャンプで人気作品になったけど、メジャーを外れ、ただ熱狂的なファンはまだいる

 

というコンテンツなんですね。

 

週刊少年ジャンプは少年漫画誌であり、集英社は株式会社なので、

 

発行部数、原作に付随するコンテンツビジネスで儲けてお金を稼ぐことが使命。

 

ぼくらジャンプファンにとっては毎週どれだけ面白いものが読めるかというのが

ジャンプを買う意義であり、読み続ける動機なわけですが、あちらとて客商売なので

儲けられるコンテンツはドル箱として続けていきたいし、人気のない作品は打ち切って、

その枠でどんどん新連載を回していきたい。そう思ってるわけです。

 

ということはですね、上に上げた三作品は、まだ儲けられる作品てことなんですね。

 

たとえばニセコイの前に古味先生が書いてた『ダブルアーツ』が終わってしまったことを嘆くファンが多かったですけど、これをコンテンツビジネス展開させようと考えた時に、そこまで熱狂的なファンがつかないと判断されたと考えてもおかしくないわけです。

 

じゃあコンテンツビジネスってなんだよって話なんですけど、

 

例えばその先頭立つものが、アニメ化。

 

テレビ放映されれば、ジャンプ本誌派ではないアニメファンを付けることができますよね。

 

これで近年成功したのはまあ、銀魂ですね。

本誌でストーリー的な人気はあったにしても、キャラ的な人気ってそんななかったような気がして。

これに乙女達が反応し、土方や銀ちゃんや沖田や高杉を神キャラとして昇華し、コンテンツの価値を高める役割を果たしたて感じがします。

 

そして乙女達が次に欲しがるものはグッズ。

好きなキャラとは紙の中、ブラウン管の外を超えて自分の世界のなかでともになるべく過ごしたいわけです。バッグにつけるストラップだったり、三次元で立体化したフィギュアだったり。

普段から使う文房具だったりとか。

 

これがマンガ作品のコンテンツビジネスです。

 

作品によっては、それこそガポガポドル箱のパチンコになったり、スロットになったりとか。

 

で、こういうのになりやすいコンテンツってどういうものかというと、

世界観とキャラクターの魅力が高いものなんですよ。

そして往々にして、ストーリーは二の次。

 

ぼく正直、エヴァってストーリー的にオモシロイと思ったことってそんなないんですね。

例えばヤシマ作戦綾波が笑うところとか、アスカとダンスで共闘するところとか、キャラありきの演出が好きではあるんですけど。

結局エヴァは原作まだ未完だし、アニメも映画も最終的なストーリーってなんのこっちゃわからない。

ここまで色んな解釈でストーリーが用意されてる作品でエヴァぐらいしかないと思うんですけど、

ファンは別にストーリーが好きなわけではなく、そのキャラがその世界観の中で活躍することを望んでいるので、別にどんなストーリーが用意されていようと、そんなにそこって問題じゃないんです。

だから原作者が、このキャラはこう考えているので、こうしなくちゃいけないんです!

みたいな作家的な葛藤は一切文化的な価値を持たなくなったと言っても過言ではないように思うんですよね。

 

という次元まで、BLEACHは来たのかなという感じ。

遡れば、80年台に少年ジャンプを風靡した聖闘士星矢もそう。

 

いま連載してるのって、チャンピオンですからね(笑)

 

 でも聖闘士聖衣をまとうフィギュアは未だに人気があるし、

新しいストーリーも受け入れられている。

 

 

まあ一言で言えば、コンテンツで活躍するキャラにファンがついてるからなんです。

しかもマンガ、アニメコンテンツが芸能コンテンツより優れているのは、

それが劣化しないこと。ものとして。

 

芸能界で生きる俳優、タレントは人なので、どんどん年をとっていくし、

ファン自体も自身を投影するものとして、年齢的なトレンドがあります。

例えば女性誌で中学生の時はセブンティーンだったけど、

OLになってからはアネキャンだとか。ファン対象となるモデルが変わりますよね。

 

でもどうなんでしょうか。中学の時にエヴァ綾波が好きだと言っている僕の友だちは、まだ変わらない。

他のアニメを好きになることはあっても、エヴァだったら綾波が好きなんです。未だ色褪せずに。

だから新劇場版が上映されれば観に行くし、なんならそれに付随するグッズも買ってる。

 

アニメのキャラって、そのコンテンツの価値をファンが高め続けていってお金を回してくれている限り、

なかなかトレンドが終わらないんです。

つまり、ライフタイムバリューが結構長い。

まあコンテンツとして当たればの話ですけど。

 

その点で言うと、BLEACHはもう、連載終了発表されたとしても、

一護の戦いって結構どうでもいいところありますよね。

主要キャラクターである、井上とか茶渡とかもどうでもいい。

BLEACHを愛する本当のファンが気になっているのって、護廷十三隊の隊長たちだったりするんです。

白哉とか日番谷とか剣八とか。もっと言えば、砕蜂とかそこら辺の。

 

ちょっとネタバレすると、ユーハバッハは一護の心を降り、

とりあえずなんかの門を開いて尸魂界から去ったんですけど。

 

もう気にならないわけですよ。

一護たちがこれからどうやってユーハバッハを倒すんだろうとか。

 

それよりも、サブキャラたちが何をして一護を立ち直らせ、もう一度ユーハバッハに立ち向かわせるかってところの方が気になるところで。

 

つまり狙って何年間も書いていたのかわからないんですが、

物語上のサスペンス、つまり本筋の敵を倒す、ジャンプ風に言うと「勝利」って点での「どうなるんだろう!?」がもうない。

 

それよりも今までのキャラが出てきて力を貸すだとか、何かしてくれるとか、

「友情」に寄せるんじゃないかなーてのが僕の予想です。

 

「努力」は結構やりつくしたので。一護に関して言うと。

また精神世界で斬魄刀と向き合って修行するんかいってのも見飽きた展開だし。

 

それよりも今までは結構個人プレーで戦ってた魅力あるサブキャラたちが

一致団結してる姿のほうがみたいなーみたいな感じですね。

 

そこまで描ければ、少年ジャンプにおけるブリーチってもう、終わりですよ。

 

そのあとの対ユーハバッハ戦とか、ジャンプじゃなくても他誌でゆっくり月刊連載で描いてくれればいいんじゃね?みたいな感じで。むしろ単行本オンリーでもいいかもしれない。

 

ブリーチは小学生から中学生というターゲット外れて、完全に20代にターゲットがシフトした感じですね。

 

アニメも終わっちゃったし、カードももう新しいのは販売してない。

いまカード出してるのって、ワンピとドラゴンボールとヒロアカとハイキューくらい?なのかな。

 

だから僕としてはBLEACHには最期まで藝術としていて欲しいし、

なんならユーハバッハが世界を破壊して終わってもそれはそれでひとつありなのかな、って感じもしてきた。それはないと思うんですけどね。

 

ただ、ジャンプの歴史でシャーマンキングというマンガがあったので、それも否定出来ないような。

ラスボスを倒さずに終わったマンガってあれくらいじゃねとか思うので。

 

まあ何にしてもですよ、ジャンプの発行部数はBLEACH終了後、落ちます。ガクンと。

ゼロ年代初頭に全盛だったファンが減るので。

ナルトもない(不自然ナルトのボルトはあるけど。)、

銀魂も終わりそう(一年以内くらいに?)、

ハンターは連載再開かとおもいきやまた休載、

読めるマンガってワンピだけ?みたいな。

 

これはある意味、集英社がジャンプで勝負するのやめるんじゃないかなー…って一つの区切りが来た感じが読者的にも感じるところではあります。

 

だってもうみんな当たり前のように端末持ってるし、

1週間に1回苦労して一冊にまとめるより、Webで毎日何作品か無料で更新して、

ファンを育てて単行本で稼いで、

そっから人気作品はコンテンツビジネスして儲けて行けばいいので。

 

これからの連載漫画って、そうなるような気がしてならない。

 

僕は親父に、子供の頃貸本屋ってのがあったって話何回かされるんですけど、

それを自分の子供に言う気がする。

 

おれの子供の頃は200円位でジャンプが紙で売ってたって。

 

 

街にドラマは溢れている。 ドキュメント72時間 鴨川デルタを見て

 

人生は、出会いであると思う。

 

この言葉は特に人に対して強調されるが、

 

この番組を見ていると、場所もしかりだと感じる。

 

不特定多数の人が集まる場所には、それこそ様々な人が集まる。

男、女、大人、子供。

ちょっと掘り下げると、太っている人、痩せている人、サラリーマン、学生。

もうちょっと掘り下げると、目が死んでいる人、楽しそうな人。

当たり前だけど、僕らはそれぞれの人達と会話という手段を使わないかぎり、そうした人々がどんな人なのか知る手段を得ない。

何かしらの接点、事件、興味が無い限りは彼らとこうした場で話すことはないので、

彼らを記号としての「大多数」と捉えるのが常である。

もちろん彼らと話す目的でそこに集うわけではないので、それが当たり前ではあるのだが。

 

ドキュメント72時間は、インタビューという手段によって、この視覚化された記号を、唯一無二の「人間」として感情を可視化した上で蘇らせた番組だと感じた。

 

その日、72時間の間で鴨川に集まったのは、

 

近隣の大学生、川を見つめる老人、ベンチでタバコを吸う人、川辺で撮影を行う人である。

 

近隣の学生は川辺で楽しそうに酒を飲んでいる。

これはとてもわかりやすい記号として成り立ちやすい光景である。

学生→川辺という宴会場→楽しそうな飲み会。

この文章だけでも脳内で簡単に想像がつくだろう。

 

しかしどうだろうか。

この番組の中で紹介されていたのは、一方、その飲み会を川の対岸から眺める三人の女子学生であった。

カメラは彼女たちを捉えて話を聞く。

 

「あの中にいる人の一人は帰りたがっていると思う。」

「みんな高校まで女子校だったから、男の子とどう話していいかわからない。」

「優しくされるとすぐ好きになりそう(笑)」

「あそこの集団に入れれば、自分も彼氏できるな」

 

ナレーションが入る。

~思い描いていた未来はまだちょっと遠いみたい。~

 

これが、ドラマを有している人とその情景である。

 

鴨川、学生、飲み会という同じシチュエーションながら、彼女たちのこれらの言葉や感情は、

この3つの同じキーワードでも想像するのは容易ではない。というか、不可能である。

 

ここにこの番組の価値がある。

 

ありふれた誰でも容易に想像がつく、もしくは行き慣れている場所で、ドラマを発見する。

 

よほど感受性の高い人間ではない限り、こうしたドラマを見つけるのは大変むずかしい。

 

しかし街は、ドラマの連続で呼吸をしている。

 

ティーンエイジャーだった尾崎豊は自身の曲の中でこう歌っている。

 

「電車の中 押し合う人の背中に いくつものドラマを感じて」

 

天才は天才と言われる所以を感じた。

満員電車に乗っていても、僕らが感じるのはドラマではなく、もっと物理的な狭さでしかない。

 

そんなの当たり前じゃん、それだけ人が生きてればそれだけの人生あるんじゃね?

 

という筋はごもっともであるのだが、ふとそれを感じ取れるのかがこの話の肝である。

 

僕らは、なにかしらのキッカケがない限り、遠い他人には興味を持たない。

 

たとえばそれがよほど特徴的なファッションであったり、

 

場にそぐわない行動、格好だったら別である。

 

街のホームレスや女装してるおっさん、奇抜なファッションで街を我が物顔で練り歩く若者もその類だ。

 

しかし、一見普通に見える人にどんなことがあったのかを想像する発想、そしてその想像力は殆どの人が持ち合わせていないと考えていいと思う。

 

よく、「趣味人間観察」という若い女の子がいるが、ぼくは何様だと思うと同時に、だったらその能力で今日観察した人間の面白い話をしろと思う。

 

これを人間観察と称して創造の範疇で行っても、たいてい深みのない表面をなでた記号で終わるか、

想像力の欠如によるどん詰まりか、飛躍したファンタジーワールドに流れ込む。

 

いずれにせよ、その子の話がつまらないのは、リアルじゃないからなのである。

 

しかしドキュメント72時間は、紛れも無いリアルである。

 

ドラマと言っても、起承転結があるストーリーではない。

その日その時その場所に集まった偶発性を持った何気ない人間たちの現状と少しの過去を会話から少し垣間見るだけなのである。しかしそこには紛れも無いリアルなドラマを感じる。

 

毎日鴨川デルタにいる時間を計っている大学二年生

 

鴨川で説教をしあうらしい、元お店のママと定年になるまで働いていたサラリーマン

 

神戸震災で家族を失くした壮年のおっさん

 

そして僕が今回一番こころを打たれたのが、

 

デイケアで出会った、PVの撮影をしている夫婦

 

カメラを向けられたのに、妻は全く動じず、笑わない。カメラに視線もしっかりと送らない。

撮影クルーはデイケアで出会った二人の馴れ初めを聞いた後で、質問する。

「あー、じゃあお仕事で?」

 

夫は少し間を取って、半ば言いづらそうに語る。

「ふたりとも患者なんですよ。心の風邪を引いてしまって。」

 

ナレーションが入る。

旦那さんは制作会社で働いていて、奥さんに出会って再びカメラを手に取りたいと思ったと。

 

クルーはまた聞く。

「いいものができそうですか?」

旦那さんは答える。

「僕の中での最高傑作」

 

このドラマを、日常風景のこの二人から、どう想像すればいいのか僕はわからない。

 

リアルすぎるし、会話からでないと二人の関係も、撮影という目立つ行動の意義も、わからない。

 

不理解や情報不足であれば二人のこの撮影風景は気持ち悪いと捉える人もいるのかもしれない。

 

しかしこれは紛れもないドラマである。

 

二人の過去に何があったのかはそれこそ想像の範疇でしかないし、

いまこの光景が理解されないことが大多数の感想ではあるのだろうけど、

一つ言えるのは、この番組が二人の今にスポットを当て、声なき感情を届けたということである。

 

社会問題を捉えたドキュメンタリーの存在価値は絶対的に必要となるが、

その根幹にいるのは問題に悩み苦しみ、行動をしている人。

 

ドキュメント72時間には社会問題の影はほとんど現れない。

 

しかしそこで遠慮しながら声を発する人間の感情は、紛れも無く問題ある社会で生きる「人間」なのだ。

 

川べりの家

川べりの家

 

 

 

なぜBLEACHにわくわくしなくなったのか。 週間ジャンプ批評 ジャンプ誌上最強芸術マンガ BLEACH について

 

 

 

約10年前に発売された、ドラゴンボールの設定集のような本、

Dragonball landmark に当時のジャンプ連載陣の先生方から一人2ページで各々思い入れのあるキャラクターとともにドラゴンボールのへの想いが寄せられました。

そこで覚えているのは、BLEACHでおなじみの久保帯人先生のもの。

 

桃白白が怖かった。ドラゴンボールの敵は毎回怖くて強そうでどうやって倒すのだろうと思う

 

みたいな旨のコメントでした。記憶を辿って書いているので、一字一句は合っていません。

 

まあしかしですよ。最近のBLEACHは敵が強すぎる。本当に。

なんですか。あのユーハバッハの強さはwww

未来を視る力と説明されていたものが、今週、未来を操れる能力になっている。

 

絶望。まあ絶望でしょうけど、正直もう感情移入できないぼくとしては絶望もクソもない。

正直、「そうきたかwww」で終わってしまっている。

この先一護ないし護廷十三隊がクインシーたちをどんなふうに倒すのか、マジで興味がわかない。

しかし、毎週のジャンプを上質なディナーのフルコースとするとき、スープの残りカスを丁寧にすくって食すように、BLEACHをしっかりと読んでしまう。

しっかりと、というか気づいたら17ページ終わっていることが多い。

今週、何秒進んだ?みたいな漠然とした感想を胸に秘めながら。

いま戦況がどんなふうになっているかもわからないし、敵としてあと誰が残っているのかもわからない。

尸魂界は結局崩壊したのか。護廷十三隊のモブ隊士達は果たして生き残っている奴がいるのか。

正直覚えていない。

 

ただただ覚えているのは、毎週驚かされるそのコマ割り構図と、毎週同じ世界観で新しい映画が始まるかのようなタイトルの見せ方。だいたいの英語の意味はわからない。ただなんとなくかっこいいことを言っているような気がするような気がする。

 

僕は表面上BLEACHを批判しているのではない。

むしろ中学の時は一番好きなマンガだった。当時のジャンプで。

ワンピースはアラバスタ編が落ち着きを見せ、空島で少し停滞し、

ナルトは第二部に入って全く魅力的ではない新キャラを増やしていた段階だったので面白みがなかった。

そんな中、中二病の僕らのこころに風を吹かせたのはBLEACHだった。

現代社会を舞台にしながらも、尸魂界という未だかつてない魂の世界の広がり、

伏線に伏線を重ねながら、細かくも徐々に増えていく設定。

子供の遊び場から大人社会を覗くか覗かまいかの中間で屯している僕らの価値観に、その構造はドハマリした。

もうひとつ、声を大にして言いたいのは、斬魄刀と呼ばれる死神が持つ武器の、始解で叫ぶ言葉である。

「我が名は、斬月!」

斬魄刀の名前に何かしらの言葉を付け加えることで武器が各々のキャラクターに沿った形に変形する、

また各々の斬魄刀に能力があるという設定はまあ僕らをトリコにした。

リアルタイムならなおさらである。だいたい毎週、次は誰が始解をする、剣八始解ができない、もうしているから(これは間違いなのだが)、ルキアが死神の力を取り戻して始解して一護と共闘する(これも破面編にならないと訪れない未来なのだが)、たつきが死神化する、など、まあ斬魄刀から僕らの夢は広がった。そしてその夢の90%は久保先生によって塗り替えられ、まったく違った視点からの未来を提供される。

しかしそれもまたかっこよかった。ルキアの処刑に一護が乗り込むのも、

一護と白哉が戦う前に恋次白哉卍解を繰り出して戦うのも、黒幕愛染からの尸魂界編が終わりを迎えるのも。まあよかった。

ここまで少年読者の期待をかっこつけて裏切れるこの人は天才だと思った。

 

だけど僕は破面編から少しずつ冷めていく。

設定が多い。英語が多い。技が覚えにくい。いつのまにか僕らは一護たちと同じ、高校生になっていた。

 

井上さんやチャドがクラスにいるとは思えない。

父ちゃん、死神なの・・・?

そのリアリティと大人になる過程で、BLEACHはいつのまにか羨望のファンタジーから虚栄の幻想へと成り下がった。僕の中では。

 

中学の頃、僕らを引っ張っていたBLEACHのサスペンス的な魅力は、斬魄刀であった。

これはドラゴンボールで言えばスカウターによる戦闘力、超サイヤ人の変身による、強さであり、

ワンピースで言うところの懸賞金である。

 

敵が死神だったのがよかったのだと今になってみて思う。

破面編では半分虚、半分死神だったわけだから、英語版、またはフランス語版始解卍解だった。

いまや、そのサスペンスが、皆無である。

クインシーの誰が始解卍解に近いパワーアップを行おうが、もう、技の名前関係なく何かしらの強大な力が目覚めるだけである。それは天災にほぼ近く、チートが進みきっている。

対人ではなく、対環境への戦いである。そこらへん『トリコ』も似ている。

捕獲レベルとフルコースメニューというサスペンスは形骸化して、どちらもぼくらのモノサシを簡単に超えた。本当にあのカエルが食べれるのか…?まあ、食べれるんじゃね…?トリコならきっと・・・で、アカシアって結局敵だったの…?というレベルでしか読み進められていない。

 

少年ジャンプについて成人した大人がどうこう言うな、というご意見は大変ごもっとも。

でもやっぱ当時のジャンプを思い返してみても、今のジャンプは総合的にという点で、面白くない。

新連載、デビュー作家の作品の質はそんなに変わらない。

何が違うか。中堅どころの安定感と、人気作品の長期化である。

BLEACHが始まったばかりの頃、長期連載作品といっていいのはこち亀だけだった。

他の作品の巻数は30も超えてなかった。ワンピースも空島でやっと30巻を超える。

いまや、ワンピ、ナルト、BLEACH銀魂が50巻を超える。

人気なのはわかる。が、ドラゴンボールは単行本42巻で終わっている。

この巻数でも僕は少年ジャンプ史上最長の少年漫画だと思った。

長く続けば世界観が広がり、その分コンテンツビジネスが加速する。ファンが二次創作で作品の価値を高める。各キャラクターに寄り添い、産声を上げてからのストーリーを細かく過去編で追いながら描写できる。

申し訳ないんだけど、これはワンピース病と言ってもいいと思う。

こうした過去編を初めて取り入れてキャラクターを少年漫画で描写したのは幽☆遊☆白書であると言われている。さすが富樫である。

しかしその幽☆遊☆白書は19巻で終わっている。いちご100%と同じ巻数で終わっている。

終盤、富樫が描くことに飽きたんじゃないかなど噂されているが、あれくらいが僕はちょうどいいと思う。

確かに戸愚呂兄弟との戦いが終わってからの幽☆遊☆白書は若干読み応えがない。

でも、今の長期連載作品は、描き過ぎじゃないだろうか。

小説でよく、文中の行間を読めという表現があるが、そうしたマンガに行間がない。

つまり読者に想像させる範疇が少ない。この話は大前提として、あくまでその世界上での行間である。

二次創作やアンソロジーでよくある、違う時間軸の話ではない。(アニメ映画はしょうがないとして)

その情報を足して、開示して、読者が感動するか。わくわくするか。

もうこの一点だけで少年漫画は描かれていくべきだと思う。

いまはあまりにも、ショービジネスに一番お金を喜んで落としてくれる読者に向けて描かれているような作品が多すぎる。

人が情報に興味を持つのは、その情報の半分近くが隠されている時だそうだ。

ヤフーニュースでよくあるネット煽り文章を観てクリックしたくなるのも、そういうこと。

 

あの頃のBKEACHは、尸魂界も、斬魄刀もロクに情報が開示されていない魅力ある情報源だったからわくわくしたという懐古厨をかますとともに、ぼくと同じ考えで惰性読みをしている読者にもうひとつは期待。

 

BLEACHは、芸術である。

 

そう考えて読むと、どこか許せる。

あの頃の一護がいまこんな感じになってます。物語では三年もたってないのに…

と思いながら読むと、まあ先にページを送ることはできる。

斬月の最終形態にも興味はないし、なんならユーハバッハの倒し方にも興味はない。

ただ、あのころ僕らを夢中にした作品が、どんな最期を迎えるか。それだけがサスペンスである。

 

BLEACH  1 (ジャンプ・コミックス)

BLEACH 1 (ジャンプ・コミックス)